車中にて

新幹線にて南下中、ひどい疲れで書きだした日記?があった。転記。


実に、実に多くの言葉が在り、私はそれを、それらを呻き続けて今、何ものかであろうとしているのだろうか。
私をこの世の者ならしめる者達を私は好まない。彼らは生き、自らを意味づけようとし、そのために、私さえも自らの秩序へ組み込むために名を与えようとしている。いつ、彼はそうなってしまったのだろうか。彼は、彼だけが、今を生きていない。何かに名前を与えることを自らの仕事としているかのように、優しげな、あるいは厳しげな言葉でもって私を位置づけようとしている。私は、彼の言葉「あの部署に居ると、優しくなれるだろう」という声にたいして、向かいあって応えるべき術を持っていなかった。私は、苦しい。私は、生きているという、この縛られた身であることが、酷く苦しみを感じさせる。何かを為さねばならないということと、何者でもないということが同時に求められている。これは、まさに理想的な形の一つでもあろう。その習慣、ルールをいまだ十全に身につけていないため、そこで喰らいつき――表面上は、丁寧に、誠実に、落ち着いて――この上下の歯が噛み締められ過ぎて零れ落ちそうになったり、あるいは、ここでさえまともに立ち振る舞えないこの剥落を呪わしく思い、死にたくなる。死と生は、私が知っている以上に同質なものだろうし、私の知っている諸々の価値などは、いとも簡単に振り落とされてしまう程に儚いものであるかもしれない。ただ、私がそれに気づけていないのだ。これだけは明らかである。自らの肉体が、普段では考えられないような力によって変形されるような、そんな言葉が好きだ。裂開、破砕、流失、滅罪、私には墓など要らない。全てが、無化されることが、私の全てが無に帰してしまうことが、私にとって何よりの喜び、あるべき形か?失われ、毀され、奪われ、消えてゆくこと。まるで『パフューム』の主人公のように貪り喰われ、跡形も無くなること。終末論という流行の思想さえも、人間の、大他者の欲望だと、そう言うのだ。成程、それが人間に根ざす欲望だと喝破するのは炯眼だろう。しかし、それは何のために看破したのか?それこそ、理性的なナイフで切り取ったその手は、欲望に塗れてはいないか?おそらく、彼はそれも十分に知っているのだろう。その上で道を選べというのならば、私はこう答えよう。何も、ないのだ、と。宇宙と云えど、世界といえど、国、社会、組織、個人…そんなものが何だというのだ。私が捨てるべきは、全てだ。もとより何も持ってなどいないのだ。何もないのだ。繰り返し、私は口に上すことにしよう。何か有形の業を為すとしても、何も行っていないのと同じだ。私が恐れていることすら、存在しないに等しい。同時に、私は何者かであるように演じなければならない。いずれも真実だ。すなわち、いずれも気にかけ、いずれも気にしてはならない。止揚など、してはならない。それは狡知の業だ。二項の対立などに縮減してはならない。何も、ないのだ。何かを説明するために、何か特定のものしかないのではない。それは個人の狭量さだ。私を、位置づけてはならない。私は何者でもなく、ただ、ここに、有形の顔をして、居る振りをしている、単なる剥落なのだ。