無化

何もなかったことにしてください。私は何物でもありません。私が私であること、意識があること、正気でいることが苦しいのです。何もないところに連れて行ってください。風の吹く中で、それでも歩き続けるのは苦しいのです。私の身体的精神的な中核をなす部分に穴があき、そこを風が吹き抜けていくので、傷口から全身に痛みが走り抜けます。私は、この痛みが、自らが不安定であるゆえの痛みが、年を経ればなくなっていくものだと思っていました。しかしそうではありませんでした。人の欲望がほうぼうで飛び交い、私も巻き込まれざるを得ない中で、様々な欲望を感じ取る術は次第に鋭敏になってきました。まるで体を刺すようなのです。私も自分自身を完全だと思っているわけではありません。それどころか、傷や瑕疵、間違い、過ち、欠陥、罪人だという方が私には当てはまる気がします。だからこそ、傷口から塩や毒をすりこまれるようで苦しいのです。
むろん、言葉をもってそのような物事を理解しようとはしていました。今もそうです。でも同時に、言葉にすることに、私のどうしようもない鈍さと小賢しさと臆病さも感じるのです。「冷たさ」「逃げ」「勘違い」。まずは言葉を捨てなければいけませんでした。
そうして、今わたしは苦しいのです。何ごともなかったことにはできません。私に何ができるというわけでもありません。でも、逃げるわけにもいきません。ただ、そこに在り続ける必要があるのです。



「無化(ケノーシス)」への入り口は、私にとってこの個人的感覚がその一つだった。