さらに、考え

さらに、考えなければならないことのひとつ。ゆるし。私が他者に罪を犯したとき、それはゆるしを得ることができるのか。私はここで、現実にもとづいて語ろうとは思わない。そもそも私は罪せる存在である。私が私であること、それは完全性などではなく、永遠に不完全な――完全という概念もまたイデア的なものである。まずは仮想としてこれを斥ける――ものとして存在することである。これを前提として進めよう。私が私であること、それはいたみそのものである。過失、欠落、失敗、それらを示すものである。存在が「ある」こと、「なす」こと、これらは全て変化という点で、ゆがみとして解釈しよう。罪もまた、同様のことである。ただ、それがより顕在化しただけのことである。私は、他者に負いを持つ。そもそも犯すべからざる一般的な「人」、他者を干渉してしまったことは、ただでさえ不安定な状態をより不安定な方向に導いたようなものである。それゆえ、あるべきではない状態をもたらしたこと、それは「罪」であり、基本的に私はそれ以上の何かをしてもならないし、それ以前に何かをしてもならなかったのだ。ここでは、まだ「なす」罪を論じてはいない、ということを忘れてはならない。なぜなら、これまで論じた罪とは、基本的に原罪を指すものとしかいえないからである。「罪を犯す」とはどういうことか。「罪」とは生み出されるものなのか。これは問いそのものにかかわることである。敢えて「罪を犯す」を自明とすることも必要だが、しかし私自身にとって「罪」とは生み出されるものではなく、本来的に人が、私が持っているものなのだ。人に関われば恐ろしく、苦しく、違和感に満ちる。ここで息をしていることさえも苦しく感じられる。相対的な問題である。そもそも持っていた苦しみ、違和感に対する感受性が、他者という「私とは異なるもの」に出会うことで、私は他者ではない、ほかでもない私であることを強く意識する。他の存在とは、私ではないものである。他者が訪れるとき、安定していたと思われた状態は一気に動揺する。意識が澄明であればあるほど、それは鋭く感じられる。しかし、私は他者を、敵、と感じることはないのだろうか。確かに、敵、といえばそうなる。しかし、私がそれに対して攻撃的になることはあまり考えられない。他者は私を侵し、私は他者を侵す。これが強く認識されていればいるほど、私は私であることさえも忌避したくなるのである。私にとって、忌避すべきは今生きている此処、現在である。しかし、生きている限り、忌避し果てて自由となることはありえない。あらゆるものが私を侵すからである。それでは死ねばよいのか。もちろんそれも答えである。それも、究極的な。しかし生にある限り死を一時的に選ぶことはできない。結局、いかに在るべきか、というここに行き着くしかないようである。だが、私はいかにも在りたくないのだ。ただただ、見通しの悪い今を、より見通しよくすることに身を砕き続けるだけである。あきらめ、