「意思が状況を凌駕する」か…。自身が自身である根拠を自らの意思に位置付け、それを頑なに守ろうとすれば、状況の正確な把握からは確実に離れて行ってしまう。おそらく、こちらに主導権を置き続けている限り。この数ヶ月間は、自分が知らずに依って立つものを暴き暴かれ、細く骨ばって日焼けした、震えてなお立ち続ける脚をつかんでは引き倒すような作業の繰り返しだった。これからもまだ続けるだろうこの作業は、気付かぬところで要請される。自らが安住している所に限って、私は何かに「依って」いるのだ。「依る」とは、少なからず自らの足を特定の場所に恣意的に埋め込むことに他ならない。そこで不当な利益を得ることを良しとし、隙あらば悦楽を得ようと血眼になってその機会を探している。その脚をつかみ、引き倒し、歩かせることが一つの務めである。しかし、同時にその引き倒す腕もまた不当なものでありうることにも気付いておかねばならない。ただ惑わせるために、彼の隙を監視しているのではないか。処刑人が自らの行為を知ってなお続けるように、ただ粛々と、営々と続けねばならない。
先に「目的」があって動くのでもない。それは進歩主義的な、安易でちゃちな理想、夢想でしかない。絵空事を呻いてはならない。動かねばならない。ただ、今はひたすらに。