つまり、私が気にしているのは

そろそろ耳鳴りがするころ。夏から秋にかけて私のあたまはびみょうに混乱する。
ヒマがあれば音楽を最大でかけ、頭に響く電子音で感覚がビリビリ震えるような体験を好んでするようになっている。
他の人たちが言うように、秋はいろんなことができる季節だと思う。でも、できることなんて本当に少ない。私の体は一つしかないし、私の頭はあまりよくない。こんなに気持ちのいい季節なのに、私はなんだか気持ちが悪くなってしまう。何もできない、と思うと悲しくなる。気持ちが落ち込んでくる。何もできないのなら、何もかかわってほしくない。誰にも私のことを見られたくないし、私も見たくない。人の姿を見るだけで、私は落ち着かなくなる。私はあの人に何かしなければいけないんじゃないかってどこかで思っている。実は何もできることなんてないのに、その思いが私を落ち着かなくさせる。
「同じところに長い間いるとよくないですね」と言う人がいた。私もそう思う。その人は、何年も同じところにいて、人間関係が分かりすぎてしまったと言っていた。だから、誰も信じられないとも言っていた。私はそんなに長くはいないけど、前よりも自分がこの場所に慣れてきているような気がしている。大したことができるわけでもないのに、何かできるような気になっている。そんなに親しくもないのに、初めて会ったころよりは親しいと思って意識しないですごく生意気なことを言っていた。「それはさすがに私でもやらないですねー」だって。何様なんだろう。誰に口きいてんの?でも、言ったあとで自分が言ったことに気付いた。こんなつもりじゃなかった、と思ったけど、でもそれって自分に言い訳してるようなものだ。私はここにいて、周りの人がだんだん他人とは思えなくなってきている。私はここで認められている、って錯覚し始めている。
長い間同じ人が近くにいると、まるで他人だとは思えなくなってくる。何を言っても自分のことを許してくれると思い始める。でも、それはとてもこわいことだ。人との距離が分からなくなってきているってことだから。私はこのままだと、ひとを一人の人間として見なくなってしまうかもしれない。簡単に人のプライベートなところに土足で踏み込んで、平気な顔をしているかもしれない。人に自分のわがままな思いをぶつけて、反省しないかもしれない。
人を大切にするということと、人に近付くということは、似ているようで全然違う。大切にするということは、尊重するということだと思う。相手が大切にしているものを、自分勝手な思い込みでいじったりしてはいけない。これって、昔小学校で教えられていたことだ。「自分がいやだと思うことを人にしてはいけない」。道徳の時間で教えてもらうようなことの、ぎりぎりのラインを、いつも注意していかなければ、私は、きっと獣になってしまう。私は人間だ。人間でいたい。人間になれないのなら別に獣でいいけど、それでも、私がいやだと思っているケモノにはならないでいたいとどこかで思っている。