繰り言

それでも、私は同じことを言い続けよう。体験、イメージ、超越性。
観念的だ、と何度も言われてきた。想像の域を出ない、と。「ナマ感」がないというのだ。確かに、それはどうしようもなく私に足りないものだ。だから、このまま考えに考え抜くことが出来るかもしれない場所を離れて、新しい世界へ出ようとした。しかし、そこでも私はあまり変わることなく日々を繰り返している。そこでまず準備されるのは、何事も経験だ、という決まり文句と、ここではないどこかへ、というロマンチストの繰り言だけだ。そこで強固になってゆくのは個人の蒙昧さに裏付けられた屁理屈と、色眼鏡であって、毎朝毛孔を開くことを繰り返すことで、私は何かを失っているのかもしれない、と時々思うのである。もっと知らねばならない、目の前のことに目をそむけてはならない。言葉にすることを一旦止めて、ここで起きていることを体で感じ取ろうとせよ、と。しかし、観念で積み重ねられたアイデアの先に、開く体験は無い。独りよがりの理解の手段を、更にかたくなな形でしっかりと肌身離さず抱きしめてみたところで、見えるものは先と変わることなく、ただ、やはり同じことを言い続けていることになる。
絶やさぬ穏やかな笑みと、不自然にならない程度の莞爾とした笑顔。これらはすべて意図した所作ではあるが、もはやこれは守りの意味しかなさない。自分自身が保障しきれないような態度を行わぬよう、すべてを意図した行為によって埋め尽くすつもりで日々を過ごしている。この態度は、朝に取る体勢とは正反対のものだ、と思っている。自分自身を極限まで開くこと。観念の先にやってくるわけのわからぬものが、突然襲ってくることに体の全てを使って驚くほどにしておくこと、それは、自らを限りなく世界に対して「開く」ことだと思っている。では、なぜそのような態度の後にわざわざ「閉じる」ようなまねをするのか。そうではない…そのつもりでやっているのではない。閉じなければ理性ある行動をとることができず、理性ある行動が最も望ましいと思われるような場所では、自らをコントロールして臨まねばならない。このコントロールを強いられる場において、私は感性さえも一定程度「閉じ」なければうまく行かないと思っている。しかしコントロールすることはまた、物事を分からなくするということでもあるのだ。「閉じた」状態で、更に「閉じる」と、それは何の用をもなさなくなる。先入観と周囲が求めるものが、一致しなくなることが多くなってしまう。齟齬をきたし続ければ、相手との交流はおろか、自らの意図さえも十分に自らさえもが同意しなくなり、そして私は身動きが取れなくなってしまうのである。後悔と自己嫌悪、相手への過剰な反発と恐怖、そんなものによって自分が身動き取れなくなってしまうのは納得できるものではない。それならば、まず前提として私は「開いた」状態を作っておく必要がある、と考えた。ある程度の可能性を自らが事前に提示することができれば、後に身動きが取れなくなってもそれ以外の方法を見出すのに多少は面倒を免れることが出来るだろう。開いて、閉じて、また開いて、閉じる。繰り返して日々が過ぎる。私はなにも出来ないのかもしれない。すでに何かにからめとられて、同じところをぐるぐると回り続けているのかもしれない。
何も、分からないのだ。分からないのは、なぜなのだろうか。ひとえに自らのとったその態度こそが、原因であるのかもしれない。あるいは、そういうものなのかもしれない。だが、もし「そういうもの」であるのならば、よりさらに肉迫し、己をえぐり取り、目玉をむき出しにさせ、苦悶にのたうちまわらせるようなことをしてでも、異なる領域に自らを責め込んでいかねばならない。分からない、と言いながら、何も分かろうとしていないという逆説、その可能性が大きいことを承知してもなお、ただこの身を周りの驚かせるものに晒し出すこと、それしか私には方法がない、のだろうか。もはやここには問いしかない。何か、主義主張を持って語らねばならないことがある訳でもなく、はたしてそれを朗々と長口上を垂れて見せたところで、それは鼻持ちならず、周囲を苛立たせるものにしかなるまい。そう、私はそれを恐れているのだ。人に苛立たれ、その人の中で(私が望む形で)生きられないということに。だから、いっそのこと人から逃れ、何も感じず、ただ風化していけばいいとも思っているのであって、すでにことさらに自らの感性のズレだとか孤高を気取ってどうこうという話ではなくなりつつある。それだけでは、どうしようもない。そんなものを持って偉そうな面を左右に振って見せたところで、私は何者にもなれないし、もともと何者でもないのにわざわざそんな不快な面をみせてどこにも行けなくするくらいなら、私は誰かの望んだ顔をしているか、誰かがそう望んだように私の顔を見るように仕向けるほうがよほどましだと思うしかなかった。その中でも、どうしても御しきれぬものがあり、それを何とかして掴もうとする。何かなどというのも腹立たしい。いったい私は何に腹を立てているのか。それは、この肉塊でしかない――レディー・ガガが「何の主義主張もしない者」を肉塊に例えたようだが、人間が口に出来ること、それが何の価値を持っているというのだろうか。全ては茶番である――私、この肉塊が、何かを分かったような気になって、あるいは、何かを分かろうとして、すでに初めから先入観を塗りこんでいることに対して、腹を立てているのだ。そもそも何も分からないのに、どこの馬の骨とも分からぬ肉骨の、使い古された道具を使っては、どこにも行けはしない。
開きつづけ、その先には何があるというのだろうか。