↔、○、/、。

誰かに見せるためではないのだ。分かるか?もう一度、いや、おまえが分かるまで言おう。誰かに見せるために、私はここに居るのではない。
ときに、言わなくともよいことがあり、ときに、言わねばならぬこともある。その両方が私たちを困惑させる原因となり、それぞれの領分を取り違えては愚劣なふるまいに陥ることもある。単純なことであるはずなのに、自らに目を向けることがないばかりに私たちはいとも簡単に肉体の奴隷、精神の奴隷となるのである。ではいま、ここに在る私はどちらの奴隷でもないというのか?あえて、そうだ、と言いたい。どちらにも主導権を渡してはならない。私は、私が監督しているのであり、その私は、私が監督しているのであり、そのまた私は、私が監督しているのである。鏡向かいに自慰を繰り返しているのではない。円環を描いているのでもない。それはより先の、見えぬ先の私。あるいは「神」とも呼ばれる私。下位の私にはうかがい知ることのできない私。そして、そのいずれもがたやすく関係を逆転させてしまうような、極めて流動的に秩序だった世界。自己完結した世界。それが事の発端であり、結末である。