麻縄で縫うた口と狭き門

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(新約聖書・マタイ7:13,14)

同様に、らくだが針の穴を通ることの喩えを私はすぐに思いだす。この例えは金持ちが天国に入ることのむずかしさと対比して書かれている。しかしこの困難さを思うと私は、まるで、自身が針と化したラクダのように思われてきてならない。すまない、自分でも何を言っているかよくわかっていないのだ。私である私、ラクダである私、針となる私、これらは視点を異にするそれぞれの私。まずもって私はどこへ至るのか。向かう、到る、という行為に私は長い間こだわり続けてきてしまった。この幻想は私を盲にさせる。両の眼の周りには、かだがこびりついている。それは眼球にさえ流れ込もうとし、私はそれを己の誉として捉えていた。何と愚かなことか、そう溜息をつくのだがこれさえも私にとってその場しのぎの自己欺瞞でしかない。つまりは口を閉ざしてしまえばよいのだ。その口を、塩で揉んだ麻縄と畳針で縫えばよろしい。それこそが私をその地へと向かわせる唯一の方法であろう。