モラルの徹底

そのうえで、形があるものに対して言及しよう。どこに書かれていたか、サド侯爵は徹底的に、自身の弛みさえも許さず他者を痛めつけることを旨とした。それはモラルの徹底である。ラカンがそう言ったらしい。あるいは何かのマンガの登場人物は自らを徹底的に暴力の側へ置こうとし、それを看破された。そこらの似非モラリストよりもよっぽど何たるかを分かっている、と。ある意味でそれは規律である。私は悪である、悪であらねばならない。手にべっとりと付いた血をなかったことにしてはいけない。悪は悪として罰せられねばならない。恐らくはその者にとっての悪は淘汰されるべき、法の下に裁かれるべきものであり、あらゆる秩序に対し超越的であるようなものではない。
大抵の人間は何にもなりきれない。何物でもない。もとい「私は」。いわんや、ではない。私だって何かにすがりたい。大きな声を挙げ、あらん限りの力をもって泣き叫びたい。しかしそれは既に許されない。涙腺を結び直すことも、喉を再び繋ぎとめることも許されてはならない。自身を投げ捨てたのならば、そのまま投げ捨てておけばよい。半端な人間は、半端な夢を抱き、登りきる中途で零れ落ちてしまえばよい。それこそが徹底である。あることを徹底すること。サド侯爵の真似はできないが、彼は欲望のままに生きたのではなく、誰よりも禁欲的であったのだ。かのモラルという名の下において従順であった。半端者の私は半端の徹底によって、禁欲たらん。価値など。笑わば笑え。老いた私がこれを見て笑った時、彼は負けたのである。指さして笑え。