つながる

振り返れば、92になる祖母は日々感謝、感謝を口にしているという。よくありがちな老人の感謝はいったい何を言っているのか分からず、ついに帰る日に至る。また次の日にはいつもの場所に戻って、やるべきことがアホのように残っている…と考えるだけで、気が滅入る。ここで満喫したのはいったい何だったのか、もっと大切に噛み締めるように休みを味わうべきだった。と半蔵門線に乗りながら後悔のような、名残惜しさのような気分が去来していた。
そこでハタと気がついた。祖母の日々「感謝」とはこのことなのではないか。この瞬間瞬間を、生かされていることそれ自体がすでに有り難いことだと祖母は知っているのだ。もしかしたらその次の瞬間には死んでいるかもしれない、しかし自分は生かされ、その恩恵を賜っている、それはほぼ奇跡に近い。私はまだ長い長い人生があり、まだ/また明日が続いていくことにほぼ辟易しながら惰性で日々を過ごしている。やるべきことが溜まっていれば、次の時間、次の日はほぼ悪夢のようにのしかかってくる。ここで自分自身は受動的ではあるものの、自分の役割を“やりたくもないのに強制されている”という半ば憎悪にも似た感覚で捉えている。自身が何者であるかということを主体的につかみ取ろうとするのではなく、過去からの遺産を惰性で持続させているだけに過ぎない。もっと私は生き生きとした生を生きることができるかもしれない、と思い至ったのだ。
不思議なことに私はその晩、夜行バスに30分遅れ、また同じ道を引き返すことになった。そうなるとこれまた不思議なもので、この一日を大事に過ごそうと思ってしまうのだ。もし自覚された最期の日があなたに与えられたら、どうするだろうか?『イキガミ』の登場人物の行動はその好例である。それから死ぬまでの24時間が一気に色を変えて自分に迫ってくるのだ。自身の存在が限りあるものだと実感することで、その人独自の在り方は濃厚に立ち現われてくる。欲望のままに突き進む、あるいは憎いアンチクショウを殺しに行く…つまるところ、“より自分らしくあろうとする”ことに集約されるのだ。
この乾燥した日々、惰性とそれに対する嫌悪に満ちた日々を転回し、より濃厚に過ごすには、自分の生がその瞬間瞬間で形成されていることを知る必要がある。そして、その形成の瞬間に自身が立ち会うことができれば、己の生はより主体的に獲得された、満足のいくものとなりはしないだろうか。そこに至ったとき、あの惰性の「続いていく」日々は、明日に「つながっていく」日々となり、刻みつけられることだろう。
それが祖母のように本当に先の残り少なく自分の身が思うようにならない時、残された生と瞬間の奇跡は、感謝すべきものとして映るのである。ここで、勝ち取る、という言葉はあまり適さない。己の命という瞬間の積み重ねを享受していることにより自覚的になる、ということが最も必要なのではないかと考えられる。そしてこんなことは特定の宗教団体に属さなくとも分かるものなのだ。
だいたいこんなことを思ったのだった。自分を鼓舞するために書いたものだから、読み飛ばしてもらって一向に構わない。