グルグル3話、口のブツブツ

死にたい。この言葉は口にすることがなければ体の奥底に沈潜し、さまざまな思いを募らせて毒々しい色に染まってゆく。そもそもそれを言わせる自身が一言で済まされることのないバックグラウンドを持っているのがそもそもの原因であって、「死にたい」なんていう言葉ですべてが集約されるなんてこともないのだ。呪い殺してやれ。祟り殺してやれ。何を口にしても、結局は形を成すことなんてない。自分は何にも縁のない人間なんだ。引き寄せられた人間との交歓さえ、根本的な空虚を孕んでいるのは分かっているまま続けているに過ぎない。嗅覚の鋭い彼が私を呼んだのは、私が最も死に近い生き物だからだろう。本能で生きている彼がそれを見過ごすはずがない。それ以外の理由は全て後付けだ。もう誰によばれようとも、私はいずれ死ぬ。100年後には必ずいないのは知っているが、おめおめと生き永らえるのは恥ずかしくて仕方がない。彼は私の首を絞めてくれないだろう。何でも口にするゴミのような私は、それで生き永らえるのだろうか。周りの人間と言えばひどいものだ。隣の男は嫁を殴る。向こうの奴は娘を犯して自慢する。みんなキ○○イばかりだ。みんなキ○○イばかりだ。どうやらそうやって俺の知らないところで世界は回っているらしい。人の評価など、はは、笑ってしまう。
やはり私は生き永らえていく。

隣の若者は、面倒なことに自分を理由づける何かがほしいと願いだす。どれだけ欲が深いのだろうか。誰にでも理解されるような言葉を…そうして手に入れようとするのが、理屈だ。理屈には脚が生えているが、つかいものにならない。私たちが息を吹き込んでやらない限り、空虚なまま、そこに立ち枯れる。しかし、若者が主体となると話が別だ。行き場のない欲望が言葉にのせて夢想を語る。根拠のないことが言葉の先々で飛び回る。その行く先などないのをすでに分かっているはずなのに、彼らは必死に言葉の先に実感というものを求めて踊ろうとする。東浩紀がおそらく言ったのだろう。最も近いことと最も遠いことしか考えられない。彼の言うことは半分ほど当たっている。しかし、その遠と近に隔絶はないだろう。単なる論理の飛躍であり、どちらも自分のことなのだ。経験していないことは語れない。だから、純粋に体験したことと純粋に想像したことだけが頭の中をめぐってゆく。ただそれだけのことを、もっと美しい言葉で言うのなら、東浩紀のような言い方になる。しかし、

理論がこれほどまでに空々しいものだとは思わなかった。自己満足の産物でしかない人の口から漏れ出たそのブツブツは、口にした者の人となりを如実に表し、口さがない者の唇を赤く染める。まったくもって下品である。それが持つ意味を知らずに使っていることが一番恐ろしい。念仏にもなりきれない言葉。ブツブツブツブツブツブツブツブツブツ・・・・・・鬱ブログもそんなものだ。自分で思ってもいないこと、少なからず思っていること、それをことばにしてオナニーしている。空回りする言葉を吐き続けるのなら、もうその口を縫ってしまったほうがいいのではないか?
そして自分の口を縫う。