意味のどぜう

意味がない、ゆえに読むことに努力をする必要がない――なんと素晴らしいアイデアなのだろう?
自分で自分のアイデアにほれぼれする。たいていの人間が書く文章は悪文である。と言うより、まともに読める文章を書く人間がきわめて少ないのである。自分の言葉でしか語ってない自己マンザワールド、内輪しか分からないことを延々と言い続けるヲタ、なんだか野望がムウンとむせ返るように臭い立つ汗臭インテリ、そんなものが跳梁跋扈である。バッコバッコである。酒の神である。江○島平八である!!
一義的な読みから離れ、更に言葉の可能性を開こうとした先達は山ほどいる。ウィリアム・バロウズカットアップレヴィナスのタルムード的言説、ジェイムス・ジョイスの夜の言語とうとう。(拙劣な知識でお里が知れるが)少なくとも文章を書くことが能力的に不可能であるのならば、言葉に対する己が感覚を汲み上げるしかないではないか。読みやすい文章とは必ずしも、意味が通っている文章と同義ではない。そこには言葉、我らが発生器官である口から生まれる音のリズムもふんだんに関係しているだろう。あぶあべえばぶうと訳の分からん物言いを延々と続けているのであれば、それは誰も振り向かなくなるだろうに。可哀そうに、自分の知識が常人より勝っていると思いこんでいる常人以下人は、足らない知識を披瀝したがるのである。自分で自分の墓穴を掘っているのに気づかないのである。Gravedigger。南無阿弥陀
だから私は、初めから一貫した理解を求める文章を書かないことに決めた。そもそも文章自体に意味がないのならば、そこは単なるクソ溜めか、痰壷か、自由な連想を生み出す土壌か、いずれにせよ見てくれは下品極まりない光景が広がっているというわけである。
また、自分で判断せよ、ということの暗示だとも考えられるだろう。そこに意味がないのなら、自分で意味を見つけるしかないじゃないか!!熱血スポ根、男根期である。ファルス抜きでお願いします。到底無理です。少なくとも後藤真紀のファルセットと聞いて男根が喉から生えているのを想像したのは一人や二人ではないだろう、と私は踏んでいる。そりゃディルドだろうって話だ。つまりそういうことなのだ。意味がなければ意味を作るのはあなたたちです(爆笑ONAIRバトルの司会者風に)!!精神分析にかけるのもアリっちゃアリですね。蝶のように舞いますよ。