反転する自己愛

私が美しくないのなら、これ以上私が命永らえる必要はないだろう。
人の個性としての顔はまた、社会的位置づけの中では価値づけられ、商品化されもする。己の持ち物が価値のないもの、下げるものだと分かったとき、それは奇妙な地位を占めることになる。自分自身という、この世界の中心にある存在は何をおいてもまず尊重されるべきものであるはず(これにはほぼ現代人の誰にも例外はあるまい)なのに、己の価値を下げるという事実、それは本来珠たるものに瑕が入ることである。それだけでも存在を絶つ理由になる。しかしこの世には何と多くの醜い生が蠢いていることか。彼らは己の醜さについて無知無自覚であるか、またはそれを知った上で生きているのである。知りながらなぜ生きていられるのか。それはまず、己の厳然たる事実から目を瞑る者があげられよう。彼らは「ある」ものを「ない」ことにしようと、そもそもそんなことは「ない」ことにしようと、意識からも押し出してしまう。次に醜さを己の美しさと読み替える者もいる。「醜い」ものを「美しい」とする文化的文脈から、そして己の現実から目を背ける一つの手段として、またそれを認めた上で自身の尊厳を維持し生きてゆくために戦略的な意味合いをもって、美しいと思いなおす。
本来人間を価値づけるものは何か、少なくとも過去の社会では「美しい」とされていたかもしれないが、現代においてその何が役に立つというのだろうか。私が、私の美しさを現実において保証できないのなら、もはやそれは死すべきだ。しかし断じてこれは思考停止などではない。私の他にも様々な人間がいるのは知っている。私より醜い者がいるのを知っているが、それは本質的に私とは関係がないことだ。比べたところで、私の性質が上がるわけではないだろう。死だ。己に美がないのならば、それ以上恥をさらすこともない。このまま頭を断ち割って、荼毘に付されることもなく可燃物として喰い滓とともに燃されてしまおう。欲望を断ち、私の存在価値をすべて換金して分け与えてしまおう。尊厳などという愚物の余剰もハエに集らせてしまえばいい。要らぬものは要らぬのだ。



わじゃろうわが、あぎばんすぼんつむりんりゅばぶちかこべんすばんつるぱんとぽん。
せべんつばきびゅるばびりじげんかしゅびまんむびけべんぱろんぽばぶるぶるびり。