「最下層」発言への所感

無理解について。人間を区別する、という行為は社会において深刻な問題を生み出してきた。最近私は特定集団間の軋轢から生じる「区別」の問題を目の当たりにした。学外から無職の若者が私たちの敷地内に入り、屋上でタバコを吸っていた。屋上は以前から、そのタバコの熱と灰が天井の雨漏りの原因となるとされ、禁煙となっていた。それを見咎めた住人と若者との争い。
その当事者は「話が通じない。奴らは被害者意識が強いばかりで、何も考えていない。あちらが突っかかってきたので阻んで引き倒したら睨み合いになったが、あちらが呆気なく捨て台詞を吐いて引き下がった。奴らは俺たちを勉強ばかりして運動ができないと思っている。統計的に見ても知的水準が低い者の方が肉体的成長も劣っていることを彼らは知らないのだ。あれが人間の最下層なのかと驚いた」と言い捨てた。
それぞれの特性に関する議論もあろうが、ここには双方の深刻な無理解が存在していることをまず主題に挙げたい。
――まず彼らはなぜ敷地内に立ち入ったのか。過去にも何度かあり、そのたびに小競り合いと警察の介入がなされた。それでもなお侵入する。そこには彼らの無理解、判断の放棄が考えられる。問題に対する建設的な姿勢の放棄と思考停止が、「関係ねーべ、俺たちの勝手だ」という吐き捨てるような、しかし自身を奮い立たせるような言葉によって何度となく起こされてきたのだろうか。
――ではなぜ知人は「最下層」という非常に差別的な発言を躊躇いなく行ったのか。建設的どころか、相手の言い分を犬の喚きあいと思い、全く聞く耳持たなかった彼らへの憤懣が「話し合う」という方向を放棄させたのだろうか。それとも以前より彼らへの根本的な差別意識があったからか。
つまり、両者が話し合うという方法を見失った結果が、お互いへの無理解を深めたように思えてならない。しかし、だ。だからと言って、双方に諍いの場で「対話が必要だ」と主張し、聞き入れられるという光景が実際の場で想定されるだろうか。互いが感情的になっているところでの論理的な主張を強弁することは、もはや新たな対立項を生み出しているに過ぎない。かといって感情的にならず、冷静に「ねえみんな、話しあおうよ」と間抜けな笑顔で入り込めば、10中6か7の割合で横っ面を張り倒されることだろう。
ここまで来ておいて結論を考えていない私こそ愚の極みではあるが、もはや観念論に基づく行動に実効性はなく、その場その場での細かな段階について配慮し、解決へと導こうとする姿勢を誰かが持っていれば、より建設的な結果が生み出されたのではないか、ということを感じている。



またもや脱線、収集しきれていない。区別から解決志向に話題が流れていくという、な、な、なんと驚きのアクロバットです。