音楽―惚れ込み、震え

最初の印象が相手の全体像の基盤として根付いてしまう――いわゆる「刷り込み」ともいえるものだが、人間関係はあまりに流動的でそう感じることはあまりない。しかし、こと音楽になると事情は違ってくる。初めて出会った曲が、そのアーティストの、自分にとっての一番となってしまう。「刷り込み」というのはあまりに学問色に染まって使いづらいが、しいて言えば、それは「惚れ込み」とでもいうのだろうか。もちろんラカンの言うそれとは違う。そこまで音楽に詳しくもないが、例えばEGO-ERAPPIN’の“a love song”、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番、Fatboy Slimの“The Rockafeller Skank”、櫛引彩香の“サニーデイ”、果てには寺山修二と谷川俊太郎のビデオレターに流れていたオルゴールの曲。これらは何度聴いても飽きることなく、まるで水を求めるかのように身体がその音を欲するのである。知らずに頭から溢れだすのである。もちろん同アーティストによる他の曲も魅力的なものが数多くあるのだが、しかし私にとってはこれが彼らの原色としていまだに映っている。
しかしそれらをも凌駕して、すべての曲において私を捕えて離さない作曲家もいる。Van den Budenmayer、彼の音楽は今までに聞いた中で最も理想的だった。一側面的な美しさではなく、底流する悲しみ、更に上へ真向かう魂、全てを包み込み、一つとなって昇ってゆく。一つ所に滞留する欲望を吐露することさえ恥じらわせる。溶け込みたい、共に昇ってゆきたいという、もはや非現実の世界へ焦がれる程の憧憬。私は狂気にも似た歓びで満たされ、うち震えるのである。またARVO PÄRTも最近同じく列せられる作曲家である。彼の音楽は今まで聴いた中で最も静謐、透明である。息をすることをやめた時、諸物の微かな裂け目から囁くように聞こえてくるような音、音の連なりである。確かではないが、最近では細田守監督「時をかける少女」やスティーヴン・ソダーバーグ監督の「ソラリス」、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」に、極めてこれに似た情景や音楽が流れていると感じる。
自分のお気に入りだ、と勧められる音楽も確かに良いものがある。しかし、結局「私」にとっては「私」が選んだものしか本当に残りはしないのだ。



……さて、放埓に文章を書けば大筋を見失って論理が破綻し、禁欲的に文章を書けば知識の浅さ、想像力のなさゆえに論理は破綻するということが分かった。ではどうするか。とりあえずはどうもしない。