テレビ呪考

まことに許し難い光景である。私が何年来にもわたって耐え続けてきたその唾棄すべき悪行を私は又問わねばならないというのだろうか、全く持ってこのようなことで激昂せねばならぬことが本当に口惜しい。蓮見重彦は悪文で知られ、おそらくあれは故意であると言われる。それで読者の気を引こうと言うのか。自分の言説を繰り返し読むことで開ける妄想もとい多義的な文脈を読者に得てほしいと願っているのだろうか、それとも自身の止むに止まれぬ感興の働きをこの文でなければ表現しえないというのだろうか。・・・いや別に蓮見先生がどうというわけではない。落胆の原因はそんな所にあるのではない。つまり、私はテレビが嫌いだということである。・・・・・・何だっ、そこ!「そんな下らねえことを読まされるおれたちの身にもなってみろ」だと!?てめえどの口がそんなこと言ったか。これはオネイニーだ。もてあました時間をせこせこと文字に欲情してマスをかく我のオネイニーだということを先に言っておいただろうが!!こんなものが実名とも世に知られては私の恥だ。一生ものだ。最近ではIPを抜いて晒すという方法で放言する者を私的に制裁するという世にも恐ろしい手口があるという。私同様時間をもてあました御仁が私の居所を突きとめないことを願うばかりだ。 いやいやそんなことは今回の本題から大きく外れている。これで3度目の脱線だ。


さて本題に入るが、特に私はバラエティ番組が嫌いである。切ない吐息が出るほど嫌いである。あんな時間の浪費の仕方があろうか。後に何も残らないではないか。疲れた心身を休ませることもできないではないか。最近は蘊蓄系番組が流行っているようだが、あんなものも屁の突っ張りにしかならないどころか、本末転倒というものだ。蘊蓄系番組でくだらない問題に頭抱えている芸能人の姿も胸を悪くするし、それで「これ知ってる」とか宣う奴の顔を見ていると蹴り飛ばしたくなるし、それ以上に「へへんおめえそんなのも知らねえのか」と優越感に浸ったり「あーこれ知らねえ、まあいいか所詮テレビだし」とか下卑た現実逃避をしている私の姿も想像するだにおぞましい。かつては話を聞くことを中心としてコミュニケーションの方法を参考にしたこともあったが、テレビでやることでもないだろう。
誰が言ったか忘れたが、「テレビは無産階級の不毛な時間の浪費のために使われている」とか何とかあったのを思い出す。実際はもっと差別的な発言だったのだが今回はまあおいといて。一つ部屋にて複数の人間が同じ方向を向いてだらしなく口をあけているというその状況がまた耐えがたい。不自然極まりない。もはや人間的コミュニケーションの阻害の原因ですらある。共同幻想のおぞましさをここに垣間見る。見たくもない番組を、独り暮らしが耐えられないからと言ってBGM代わりにするのもどうかと思う。音楽をかけろ、妄想しろ!まさに想像力の欠如を増長させているではないか。私などがテレビを目にすれば即、集中力が削がれて人と会話なんてムリのムリムリになるのが目に見えている。まったくテレビなど緊急放送もしくはニュース位でとどめておけばよいのだ。
そんな思いを私に抱かせたのは、つまり毎日帰ると一番に目に入るのは、テレビを見て海岸の哺乳類のように寝転がっている者の姿である。おかげで私はテレビを執拗に憎むようになってしまった。朝っぱらから阿呆面下げてテレビをつけに来る奴を見ると髪の毛を鷲掴んで引き回したくなる。こっちは静かに朝飯が食いたいんだよこの野郎。しかしもうすぐ地デジの時代である。貧乏人はしばらくテレビを見られないと思うと胸がすく思いである。もうお願いだから二度とテレビなど持ってこないでくれ。