’talking about...’と「翻案」

或る理論なり構築物をモチーフとして何かを述べるとき、できうるならばそれの論点を十分に把握することを前提としたいものである。論文とはまさにここを重視する必要に迫られる。しかし「物語る」という行為で代置される場合、事情は少し異なってくる。そこには準拠の論理的正確さは必ずしも必要とされない。より奔逸した方法で、何割かを原典に依拠しながらも独自の世界を語ることに価値が置かれうる。これは芸術活動でも重視されていることだろう。しかし今は敢えて、論理的に正確な準拠をベースにしたイメージについて考えてみることにする。
論理的正確さを前提としたイメージなど、水と油の融和を言うようなものだ。ここで「語る」とは、構築物の抽象性にバリエーションを与えること、あるいは翻案することともいえる。この行為は構築物自体の論理的正確さを検証するという意味もあろう。しかし、抽象性を旨とする構築物に対しての翻案は、意義のないことかもしれない。もしそれ自体で充足した論理である――すなわち、何事かに答えを与えるために抽象性のみが有効である、と判断されていた場合、翻案は、喩えて言えば、足を洗うために水を用いねばならないのに、泥を用いるようなものである。もちろん、この「翻案」は目的と手段の不謬性を備えていることが前提にある。だが、人間の行為に不謬性などあるだろうか。有限の存在である人間に、より宏大な世界の可能性から唯一の答えを導き出すことなど可能だろうか。いわゆる「無限」の可能性を持った世界から、唯一の答えを導き出すことなど論理的に可能であるとも言えはしないだろう。しかし人は、1つの答えを導き出そうとする。それは、この行為をなそうとする人間が有限だからである。有限ゆえに、選択肢も有限とならざるを得ない。云々