収束

身体的パフォーマンスがイメージによって行われたとき、これまでにはない感覚が通った。スポーツとは、ある種の強制力を持つ。自身が試みたことが実を生さないと、過剰に振る舞われた身体は保留され、煽動された内面が動揺を起こす。もともとスポーツは苦手なのだ。それなのにいまだずるずると続けている。何とかして改善しようとするが、能力が高くないゆえに小理屈を述べてはへの突っ張りになるのかならないのか、全くいい加減にしろ!!ドン!!(机を叩く音)行き詰まっているのだ。苦しさが先立ち、やらなければいけないという思いだけが私を引き摺り回している。道場に行けばしぜん鬱鬱とする。稽古が終われば徒労に身を裂かれそうになる。かつて、私は自分自身を統合失調症圏の慢性鬱だとか言った。他の者から見てもそれは同意見らしい。「あー…あの人知ってますよ。なんつーか、イっちゃってますよね。統合失調症パラノイアって感じでしたね」と。あるいは別の者が「俺のここでの知り合いっつったらこんな鬱病の人間くらいしかいねーな」と。別の口からそれぞれ評されたというのが大変興味深い。いずれの症状群も、私が実のところ求めていたものだったのだ。地の底にたたきのめされたような絶望感と、その地の底さえも足場を失い、どこにも寄る辺ない状態へと放り込まれるという、救いようのない状態。思えば、私はかつてジンクス・験担ぎを一つずつ見つけては潰していくという作業を延々と行っていたのだ。どこに依ることも良しとしなかった。そして、思春期にありがちな虚無感を一過性のものとして一笑に付すことを断固として拒絶したのだ。思春期特有のものであれ、そう思うということはどこかに原因、背景――個人的なものに限らず――があるに違いない、と。繰り返し繰り返し、漆喰を何年にもわたって壁に塗りこめて、剥がれては別の溶剤を使って貼り付け、挙句これまでに使った材料を一旦全部鍋の中にぶち込んで煮込もうとしさえした。若気の至りかどうかは分からないが、「若気の至りってやつで」などと知った顔でほざくことを許さなかったのだ。繰り返し繰り返し、私は今までそうしてきたのだ。そして今、周りにまで自分をそういう人間だと思わせるにまで到りつつある。これは完全にポーズだと言いようがない。
まあさて、今夜も一体何言っているのか分からなくなったが、そういうのもまたいいだろう。