「メタ」

「メタ」にこだわり続けるとどうなるか。前提となる領域、「それ以前」の問題。そのもの自体のこと。事実、「メタ」領域を扱うためには膨大な労力が必要とされる。それは、“メタ”の領野が全体を支えるための土台、大地、基盤であるからであり、その部分にしか過ぎない特定の問題を扱うよりも浩瀚な知識と深い洞察が必要となるからである。これと同時に、いや、そのためか、この「メタ」を扱う時、我々は生半可に関わるときわめて興味深い事態に遭遇する。すなわち自家撞着/同語反復。それ以上の知識も洞察も持たない者はそれを問うことすら叶わない。
この領域に足を踏み入れるすべを私はまだ知らない。少なくとも、関わることがあまり得策とは思えないような状況になるのが分かる以上、近寄りたくないのだ。「そもそも〜」などと本質論をかざして得々とのたまっている方がなんぼか楽だ。*1

*1:ここでは「メタ」と本質論を分けて書いている。場合によってはこれは同じものとして扱われるが、個人的感覚的にはこれらを分けるべきではないかと判断している。というのも、「メタ」領域とは、それ自体が“外の世界”を議論する土壌になりうるのに対し、本質論はあくまで(“外の世界”と対置して)“内の世界”で語られることが多いからだ。たとえば「このこと」を語っている自身へ必ずしも意識は向かないかもしれず、ひどい場合は機能的側面しか論じられないことさえもある。本質論は、例えて言えば、一歩も家から出ていない可能性があるのだ。