自分に病名を付ける

私が自分自身に対して「病者」というレッテルを貼ったとき、それはいかなるものとなったか。結論から言うと、それは今の私にとって足枷となった。眠りなどによって意識水準が下がると、昔から時々幻聴のようなものが聞こえるのだ。ほかの人々にそういった体験があるか、と聞いてみるとそんなものはない、という。私もそう聞こえるような気がする、ということを以前から自分でも冗談めかして言っていたのだ。しかし、それとあいまって社会性という問題が何年もほとんど質を変えず私にのしかかっていることに気づいた。周囲に対して大なり小なりの脅威を感じるのだ。人が私に怒り、私を憎み、蔑んでいるのではないか、と。そう感じた時、視線が恐怖となり、私は凍る。これに対して、何かしら評価や好意をもたらされると有頂天になってしまう。この落差を調整できずにいた。しかし、周囲に対してそれをあからさまに伝えぬように押し殺していたため、何を考えているのかよくわからない、とよく言われることもあった。とはいえ私に近しい人や勘の鋭い人には、その幼さともいえる性質はとうの昔に見抜かれてもいた。そしてこれに付随し、いつかこの世の底が抜け、崩壊してしまうのではないか、という恐怖を秘かに持っていた。また、落ち込みに対する強烈な眠気。眠気に伴う幻聴。最悪の時には、幻視。いや、幻視らしきものと一応言っておこう。
この状態が訪れることは、もう10年近く前から知ってはいたのだ。そしてこのことをほかの人に話したところで、一般にあるものだ。往々にして落ち込む時はそうなる、と。しかし、この時期になって思う。やはりこれは私の特性ともいうべき「病」なのだ、と。そう考えれば、社会との接点のつなぎにくさにも納得がいく。私の考えが頻繁に拡散することも、基本的に自分のことにしか興味がないこともだ。つまり、私は統合失調症圏の慢性軽度の鬱なのだ。
だが、こんなことを言って何になるだろうか。何にもならない。このようなレッテルを貼ることにより、私がより自分に建設的に、受容的になり、社会生活を幾分かは立て直すこともできるだろうが、いまはただ、自分がこのような「病」を名づけることによって免罪されたような心持になっていることが恐ろしくてしょうがない。
社会との関係を基本的に取り違えている私は、極端な依存や孤絶を繰り返してきた。信頼できそうな、受容してくれそうな人間に対してべったりとなり、嫌悪感や拒否を示されるまでそれを続ける。そして否定的な感情を嗅ぎ取ると、とたんに身を引き剥がし、身を凍らす。最近では2年間かけて構築してきた(と思っていた)人間関係を、自分の依存の行き過ぎによって壊していた。挙句の果てには、「いいかげんに男根期に入れ」とまで言われる始末だ。男根期とはフロイトの理論によるものである。フロイトは幼児の発達を、口唇期、肛門期、男根期、そして潜伏期という4つの段階に分けた。私はいまだに肛門期にあるということか。乱雑でいい加減、人に尻拭いをさせて喜ぶ、かと思うと妙なところで几帳面。正直に言うとよくわかっていないのだが、それでも思い当たる節はいくつかある。というよりも、これまでの私の特徴をみてみればさもありなん、と思われることだろう。
しかも最近になって、私はよく夢を見る。ほとんどが排泄に関する夢。女の子の手を引いて校舎の裏側に回る。後者の裏側は汚く、家禽の糞でまみれている。ある入口の奥には、ドラムセットなどバンドで使いそうなものがおいてある。私は「ここで今日はやるのか?」と思い、また通り過ぎる。汚かったからだ。さらに歩いて行くと、右側に黒く大きな鳥がいるのに気づくが、目をあわさずに進む。そして行き着く先に、鳥小屋の金網が貼ってある。出口もない。私は女の子のほうを振り向くと、その子は異様に大きい嘴をもった黒い鳥になっていた。その鳥は、その異様な嘴と頭で金網をグイグイ押している。私はその姿を見てぎょっとしたが、鳥はこちらを向くとクウン…と親しげな声で鳴く。私は後手にその鳥の頭をなでて引き返す。すると、もとの入口の先から、もう一人の女の子がやってくる。どこにいたの?!と聞かれる。私は何事か聞き返すと、彼女は「少なくともここじゃないわ」と答えるのだ。
私は自分自身に気づくときに来ているのだろうか。これは符合だろうか。それとも精神的成長による内面からの表出なのだろうか。私はどうなるのだろうか。私は本当に統合失調症圏の軽度慢性の鬱なのだろうか。