渡辺文樹をめぐる面倒事とは何であるか

ノモンハン』『天皇伝説』…近頃私の中で最もホットな話題である。これについて感想を縷々述べたいとそんな欲望がむくむくと湧いてくる。
・・・・・しかし、書くべきことが本当にあるのか?疑問はそこに集約される。作品の宣伝ばかりに踊らされ、そこに何か尤もらしい感想をつけたところで文章の内容に実の伴わないことはすでに分かり過ぎるほど分かっている。今回の『天皇伝説』『ノモンハン』だってそうだ。あの渡辺文樹監督だから、というただそれだけの理由で作品評を上げるなどと早々と宣うのは全くもって軽薄だと言わざるを得ない。


天皇伝説』『ノモンハン』しかり、彼は前回同様、虚実綯い交ぜにした作風を持ってくることだろう。しかもご丁寧なことに擬ドキュメンタリーも確実に踏襲されるだろう。つまり、「こちらには証拠があるんだ、何か文句があるのか」と静止画像や公文書(らしきもの)を持ってきて胸を張って主張するという方法。「ウソをウソと見抜けない人でないと難しい」と宮崎駿が言ったのか、はたまた西村博之が言ったのか。まあそんなレベルですらなかろう。作品自体の稚拙さに激昂し、「こんなものは日本の深刻な側面を徒に弄繰り回しているだけで、真の内容などほんの一欠片も見出せない!!」と怒る方の姿が目に浮かぶようだ。だからこそ、公安や右翼団体の方々が反応するのである。問題はそれが真実か否かというより、「タブーを犯している」というその一点に集約されるということももはや明白である。渡辺氏はタブーを敢えて犯して政治的に主張したいことがあるのではない。彼の荒唐無稽な作風には、事実関係を真剣に吟味するところなど皆無に等しい。彼の目的とすることは、「表現の自由を守る会」と自ら銘打っているように、表現そのもののあり方を問うているだけなのだ。『島国根性』は未見だが、彼のほかの作品に通底する社会の閉塞性への鬱屈した苛立ち、そして露な怒りがある(ということにしておこう)。これらを表現することが彼の目的であると言っていいのではないか。しかしその態度が一部には癇に障るのかもしれない。反骨精神というのか、既存の体制に反対するのは「粉〜砕!!」と学生運動に賭けて闘志を燃やす大学生までで結構である。具体的な主張を伴わない、個人的な怒りに任せた行動が多くに支持されるわけがないだろう。しかしそれだからこそ、先に述べた方々は否定的に反応するのかもしれない。簡単に言えば“侮辱された”と感じるのだ。しかしここからが面白いのだが、渡辺氏本人への風当たりは私が想像したほど激しいものではなかった。“今じゃ公安も右翼も放っといてるよ”という台詞を正直に受け取るとするならば、氏の主張の真に向かう先が、自分たちが大事にするものではなかったということに気づいた、ということである。氏はもともと日本の禁忌とされることに具体的な問題意識を持っているのではなく、その日本という風土、より正確に言うと「自分を取り巻く環境」の閉塞感、抑圧感に苛立ちを覚えているだけなのである。それに気づいたとき、彼は敵するに値せずと判断したのかもしれない。一方で、また別の見方もできる。“放っといてるよ”というのはポーズにしか過ぎない、ということだ。つまり、そうは言っているものの、それをわざわざ表明するほど発言者にはいまだ釈然としないものがあった、とも考えられる。もちろんここには、諸団体の介在はほとんど考えられない。一般個人のツンデレとも見える態度の可能性を指しているのである。また最後に、“放っといてるよ”という台詞自体、私の勘違いという可能性だ。“もし放っといていたならば、彼もここまで注目されることはなかったのに”という文面であったならば、やはり初めに想定した形が立ち戻ってくる。「タブーを犯す」ということ自体がアウトなのだ。そしてこれが一番妥当な線だろう。『靖国』でも右翼団体が出張ってきたという話を聞く。『おそいひと』では障害者差別だと叫びだす者がいる。社会の人々の認識とはその程度のものなのだ。作品のうがった理解など望むべくもない。そこには、ただ表面的な情報に表面的に、つまり即物的感情的な態度をむき出しにする、良識を持った方々がおられるだけである。そう言った方々が恐らく多いであろうことを考えると、私がここで徒に穿った見方をしても、浅薄な態度でしか判断することのない方々にはこの言葉自体が全く届かない可能性が圧倒的に高いと考えざるを得ない。こんな文章を最後まで読みきるのは人格偏倚性が疑われる方々ではないかと心配になってくる。


いずれにせよ渡辺文樹をめぐるいろいろな憶測は、その浅薄な態度が幾重にも重なったまことに呆れた状況にあったということである。だから諸兄は、そんなに肩肘張らず彼の奇矯な立ち振る舞いをご覧になったらいいと言いたい。チンドン屋見世物小屋を、または近所の火事をわざわざ夜遅くに起きだして見物するようなものだ。不謹慎を覚悟で見に行けば、何かしらの満足が得られることだろう。それは「見てはいけないものを見た」というひそかに後ろ暗い、しかし本当に取るに足らない背徳感の混じった仄かに甘美な感覚である。