forever-love(笑)

いやはや、なんともしゃっぱりさっきりしたいもの。面妖な潔癖症がたまにちらりちらりと顔を見せ、実際にそう「する」というより、人にそうであることを「見せる」ための、パフォーマンスとして表に出すことがある。そういうのは、基本的なスタンスとして忌み嫌うているため、あとで思い出すと自分の愚かさ、疎かさに身震いする。そんな何にも根付いていない態度を人に見せて何になるというのか。目的(“目標”ではない)のために一手段としてやるのならまだいい。見せること、そこにそれ以上の意味を持たないのは、中二病に通じた腐れ根性を思い致させるのでくそったれだと断じて憚らなくなりたくなることもあるといえばあるしないといえばないというよりもはるかに決然といわんとするわけである。ばひゅん。建前もあまりいらん。社会的に体面を繕うための方法、謙遜してみるとか、卑下してみるとか、根拠もなくしかもそこに己の矜持がちらほらと見えようものなら、こいつは薄汚いうんこちんちんだと言うてまう、いや別に本気で言いはしないけど。人がやってるのなら黙って見ているが、自分がやっているのだけはどうにも許せん。そんなことで腹に石ころをため込みたくないので可及的ストレートにいく。

そう、己を顧みない行為、思考をすることが本当に好かんのである。無自覚的無責任なのは居心地が悪うなる。あからさまな己の欠点を認めはするが、あからさまに己の欠点を認めてみせるのは控えようひかえおろう。欠点はほじくり返すためにある。劣等感は自分が前後不覚になるまで突き詰める必要がある。本当に自分の見たくないものに出会えばゲロ吐きそうになるものと相場がきまっている。そのため、その媒介として有効なのが、敵である。もっと説明すれば己を害する者である。私は彼に恋焦がれている。いまだ見ぬあなたへ、私をもっと傷つけてください、絶望するまで切り刻んでください、と心うち震えて待つ。彼は具体的なはなし、克服すべき対象ではあるが、対象は大きければ大きいほどいい。そもそも敵なんてものは存在しないのであるからして、自分が勝手に決めているのであるからして、そういったものへの絶えざる恐怖というか緊張は常に私をビリビリさせ続けてくれる。最大の敵は己だ、とかなんとかいう言葉にも換えられるけど、永遠にたどり着けないという絶望の方が甘美であることはもはや言を俟たない。永遠の欠如、対象aである。えらい学者さんも言うておられる。そこにファロスでも突っ込んでくれるのならいいのだが、まあそんなものは存在しないし、若さゆえの勘違いというやつで、てっとり早く捕まえてもなんにもならんのである(アドレスに交際相手の名前を入力して然るのちにforever-loveとか入れちゃうとバカの極みである。ちょっと光ってるね!!)。話は例の如く脱線が脱線を呼んでいるが、なんとなれば潔癖症であることは複雑微妙な側面をもっていることを知っていただきたいのである。あるということを認め、しかして蚊帳になぜか蛾がはいってきてしまうように、異物が混入するということも当然だと知るのが、大切なのであろうよ。


知るこつや。やがて蛾が入る夏の蚊帳