「怒り」の力動的システム

実際、塾講師など*1自分の言いたいことを抑えてその場をコーディネートしなければいけないようなもので、生徒ができないからと言って怒りを爆発させては話にもならない。そんなことをして相手の目が覚めるか?逆に委縮するだけではないか。普段の10倍くらい譲歩して、歩調を合わせ、足取りを少しずつ速めていくぐらいのもの。関係性は維持できているのかもしれないが*2こちらは案の定頭が波のように脈を打っている。どうしようもない鈍痛。嫌いではないが、自分の中の攻撃性が沸々と滾っているような感じすら抱く。
その時、私が自分をマゾヒストと呼ぶのに対し、人が私をなぜサディストと呼ぶのか、その理由が分かってきた。普段より人に対して極力好意的に接しようとするのは、自分の怒りが人に投影されて自分に跳ね返ってくるのを恐れているため。そのとき怒りの矛先は人ではなく、私自身へと向けられる。自分で自分を喰いつくそうという腹である。そしてその「可虐」対象に対してさえもエゴを抑えるという不自然な状況になって初めて、それはありありと自覚される、というわけだ。頭のうずきは、いわば自覚された『内圧』である。そういえば母も怒りの人であった。私がそれを受け継いでいないはずはない。その攻撃衝動は、ゆがめられた形で内在していたのだ。また、ここで“好意的であること”と、“エゴを抑えること”は恐らく必ずしも同義ではない。好意を演じていれば感情はこれに染まっていく。問題なのはエゴを抑え、諦めともいえるスタンスを取っている時だ。いわばニュートラル、意図的に感情の電気をシャットアウトしているようなもので、暴発の可能性すらはらんでいる。
そして、人は私のサディズムがふとした拍子に赤い口を開くのを見ていたのだ。自虐で喜んでいる節もなく、ただひたすら己に鞭打つことを良しとする一方、受け入れられない状況で我を忘れて苛立つ姿を。自分が有利、高位にあればある程、それは抑えていても出てくるということだろうか。

斉藤孝氏*3や他の方の著書でも、内圧は創造性の契機だと示唆していたが、まあ感情の色を伴っているうちは使い道がない。ふと見ると、今朝載せた「元宵」も怒りを内在させた漢詩である。ここまで形にできれば怒った甲斐もあったというものだが、少なくともまだできそうにもない。自分の怒りが何であるかすら知らなかったというのに、何ができると言うのだろうか。結局書き始めてもこんなクソ下らないことばかりだ。激しくオナニーしても血が滲むだけだろっ!!

*1:すべからく社会的立場にあるものは、と断っておいた方がいいような気になってきた。なにも自分のやっていることが特別だなんて毛ほども思わないけど、先の言い草はまあ、そうなっちゃうよねぐらいに読んでおいていただきたい。

*2:こちらも注釈へ。外面だけでも仲良く、と相手も思っているだけかもしれないが、そんなものの深層/真相なんてわかりゃしないだろう。

*3:『原稿用紙10枚を書く方法』(大和書房)。何だか気恥ずかしい気になってくるのは俺だけか…今更かよって感じだしな。