じゅてえむ

「愛の告白」なる甘美な響きは、ときにおセンチな私の心をくすぐって止まない。ほんま笑わかすなと普段ならば言うところではあるが、孤独を感じるときというのが人には必ず訪れる。意識しようがしまいが例外なく。恐らく。多分。もしかしたら。百歩譲って仮定することにしよう。変化を求めるということは大局的にみてそういうことだと思うのだが、俺はそんなものない。気遣いなんぞ無用じゃ阿呆なこと抜かすなこのぼけ、と威勢の良いのは今回はほっておくことにしよう。何となれば話が進まんからである。弱気な態度を見せては付け込まれるのが必須、ここでがつんと主張しておけば輩のいうことなんぞ歯牙にもかけん勢いで妄想が広がると確信している。たぶん。十中八九。よしんば。ほんますんません。ちょっとだけ言わして下さい。さて愛の告白なるものは形はどうあったにせよ父上母上もやったことであろうし、それならばよし私もしてみんとてするなり。なんせ人生に起きうることはなるべく想像できうる状態にするのがこれからの職業には十分に生かされることであろうと先達が言ったような気がするので取りあえずやってみることにこしたことはない。迷いの森に入らんとも我迷わずなんつて。「おぬしわしに人生預けてみんか」と言うてみた。なんやそっぽ向かれた。何やねん何が悪いねん相手が悪いんやろこの甘美なくすぐりを受け止められん者の神経がやられとんねやろと豪語して次のすてっぷへ向かってみんとす。みんとす。「わし子供には目がないねんこうみえても通やで」何がツウなのか知らぬがハッタリも重要である。したら姐さんの顔が引き攣りよった。いつの間にか蜃気楼のごときフ、フェイドアウトや。カミングアウトしたとでも思うとんねやろか。あとで鏡を見ると緊張のあまり笑顔が妖怪のごとき形相になっておった。どうりで。三本目の足も天を衝かんが勢いであったのも失敗の原因であると推測する。ここはストレートに行けと言うことだろう。よし今度知り合いを見かけたら開口一番告白だ。じゅってえむ。おお何やら古風ながらもねっとりとしたいやらしささえ感じるが、それよりも真剣味が違うでわないか。じゅってえむ。君も声に出して見るとよい。この甘美さとは人を籠絡するに欠かされざるもの、なに私に言うてるのもっと言って私の耳元で囁いてなんてせがまれたら百辺でも二百辺でも耳孔を濡らすがごとき勢いで言うてみせよう。ほれ人が来た、じゅってえむ。案の定立ち止まった。切れ長の目は次第に赤味を帯びてくる。その見開かれた瞼の奥には情熱的な炎が宿り、私の奥に燃え盛る炎が今映らんと、おやなぜ私は寝ているのか。この夜風の心地好いからといって町を仰ぐような豪胆はないはずであるが、なにせ大の字で天を仰いでいるのだから否定のしようがない。そういえば先に道端のお兄さんにたばこを勧められて、いい気持ちになって、おや尻の穴もなぜか風通しが良い。屁がよく出ると言うか尻穴が呼吸しているようである。人のぬくもりと心の炎がしかし愛の残り香を物語っている。ああ何やら幸せである。その夜私は愛に目覚めた。答えは三つ。