批評をめぐる日々のOh no!の件について

批評をめぐる日々の懊悩のこと。
知人にいわれた言葉が今でも頭の中に響いている。「物作ったことのない奴が作品についてどうこう言うのを聞くとヘドが出る」。確かに、これは本当に腹に刺さる言葉だった。だが、そうやって門外漢から発言する場を奪ったら視聴者は視聴者足り得なくなってしまうのではないだろうか?
しかし私も以前、毎年開かれるというとある大々的なイベントに参加してきたときにその感触を味わったことがある。それは群衆から生まれる傲慢とも言うべきものだろうか、消費者が寄り集まり、生産者の産み出したものに対して、さも自分の評価が絶対であるかのように、しかも自分たちは生産の技術、方法にも一家言あるのだと言わんばかりに作品を云々する姿を見てなんとも言えない気分を味わったものだ。
確かにそういう意味で私に上のような言葉を発したのならば、彼の言うことに共感できる。しかし、そのような反論も極端に寄れば、視聴者は四の五の言うな、というこれまた歪んだ見方にもなるのだ。では、視聴者が、一介の視聴者風情が面白い面白くないを議論してはいけないのだろうか?生産は消費と相即不可分の関係であるはずなのに、消費者を無視した生産を想定して・行っていいのだろうか。
この両極端な側面には、どこか齟齬が生じている。生産者―消費者という関係を対立構図で捉えてしまっているからだろうか。それとも、互いに不寛容であるという想定がこの齟齬を生んでいるのだろうか。それとも、生産者、消費者のいずれかに、問題を発展的に解決させようとしない傾向が根付いているからなのだろうか。私はこの問題に自分なりの答えを与えられないでいる。
おそらく、この手の議論は大昔からされてきたことだろう。しかし、新しい世代は歴史を知らず、新たな文化の中で昔と変わらぬ問題をめぐって言い争う。この問題の根本的な解決は、人間が文化を生み出すかぎり、永遠と続くことだろう。それは個人レベルでも同じことが言えよう。何世代かかっても人間は昔から同じ成長過程をたどるのと同じように、まるで文化の副産をめぐる問題は先天性の障害のように人間に付きまとってくる。せめて、世代を越えて問題を前進させるような素地があればいい、そう願ってやまないが、まあ少なくとも私が生きているうちは無理だろう。あと何世代かかることか。さらに言えば、私「たち」が問題として意識していない限り、この一件は永遠に解決されないとも言っていい。
とはいえ、この問題はある面ではゆるやかに、もといなしくずしに崩壊しつつあるともいえる。そこには視聴者が投稿できる動画サイトの存在がある。生産者と消費者の壁が失われるかのようなことが起こっている。つまり、消費者が生産者になることが可能になったのだ。生産者/消費者という垣根を越える可能性がここにはあるのかもしれない。しかし、問題はそう簡単でもない。普通に考えて素人に自分の作品を批評されたら、腹が立つに決まっている。「ど素人が嘴挟むんじゃねえよ!」そんなものだ。ここには、物作りのプロとしての意地、矜持がある。だからこそ問題は、実のところ度し難いほど深刻なのだ。消費者として、つまり高みに居座ることの不可能性を抱えつづける消費者、いや“ゴミムシ”と名付けられるべき者の立場から、いったい何を言うことができるだろうか。