喃・センス

「実際」と私の中にある言葉をつなげる、とは極めて困難を伴うことである。そこに論理的整合性を求め、あるいは脈絡なく連想を重ねていくのか、または暗渠から噴き出る感情をそのまま言葉に翻訳しようとするか。少なくともどのように力を入れた文章であっても、向かう先がなければ、ただの塵芥がまた増えたと判断されるに過ぎない。
私が言葉をこうやって発するのは、単なるオナニーである。そう言っていい。別に自嘲でもレトリックでもない。まさに言葉でみずからを慰め、ええとこういうのなんていうんだっけ、無聊を慰める行為でしかないわけだ。ここには何の社会的交流もない。単なる妄想の産物であり、おそらく高学歴国立大学の関係者の方々がそっと囁いて、社会の波を飄々とわたりもしくは俯瞰した生活を瀟洒に切り取って見せるものとは似ても似つかない。ここには何の論理的整合性もない。思うままに言葉を弄くり倒す極めて低能な人間の醜い所業が映し出されるだけだ。ここには何の成長もない。学習することをかたくなに拒み硬直化した老害が、自らの尾を追い回すさまを延々と見せるだけだ。そしてここには、この文章を書く者の根底に巣食う幼児性と、矮小にして度し難い誇大妄想が見え隠れすることを誰しもが感じ取ることだろう。貪欲かつ幻想的、外に求めることがないために結局は己をその溢れ出す欲求で破壊しつくそうとする。
少なくとも私はそのようなモノだと思っている(人間だという言葉さえも奢りに等しい)。そして時折、知的――軽薄だがしかし日常思考を空中戦で行い瀟洒に見せることに何のためらいもない、つまり“スマート”という印象――な装いに憧れてそれらしき言葉を吐き、破綻するという一連の所業がごく当然のように繰り返されるだけだ。